ヘルマン・ブール最後の足跡

最近になって出版になったヘルマン・ブールの伝記ついて、日本山岳会の会報『山』にその紹介記事を書いた(20042月号)。本書中には、ブロード・ピーク初登頂のあとのチョゴリザでの遭難死の模様を伝える当時の同行者クルト・ディーンベルガーの手記を引用した箇所あり、興味あるので訳してみた。(越田和男)

出典:R.Messner, H.Hofler “Hermann Buhl” The Mountaineers, Seattle, 2,000
以下pp185186の翻訳

雪中最後の足跡The last tracks in the snow

ブールとディームベルガーはザイルを解き休憩し食事した。太陽が照りつけ、空は青く、ブールはこの遠征で最高の日だと言った。二人が再び動き出した時ザイルはブールが担いだ。
 突然南側から雲が近づいてきた。標高7,200から7,300メートル付近で二人はガスに包まれ、しばくして・・・(とディームベルガーは続ける)

 「・・・猛烈な風だった。二人は交代でトレイルを刻みながら更に高みを目指した。視界はどんどん悪化した。7,300メートル地点で、ブールが振り返り、引き返すべきだと叫んだ; 風が我々の足跡を吹き消し、視界も悪かったので簡単に雪庇の上に踏み込みそうだった。彼の判断は正しかった; 我々はそれまで考えもしなかったことだった。ヘルマンが最後のピッチを先導していたので、下りは私がリードした。雪崩の危険を考え、我々は互いに10から15メートルの間隔をとった。」
 「自分たちのピッケルの穴だけは確認できたが、やがてそれすらも困難となった。7,200メートルまではなんとか下降した。突然、それは私がピッケルを刺した穴を見つけた直後だったが、雪面の振動が始まった。まるでハンマーブローのようだった。そして地面が私の下から沈み込むように感じた。恐怖を感じた私は、右側の雪面に飛び移り10ないしは15メートル下降したが、その間ずっとカールした雪庇の縁と、そこから離れていく幾つかの雪の小塊をイメージしていた。」
 「何故だ、どうしたことか?」
 「私はヘルマンを振り向いたが、私の背後に瘤状の突起があり、その向こうは見えなかった。ヘルマンが現れなかったので、私はぞっとして、斜面を駆け上がった・・・・ヘルマンが居なくなった。私は彼の足跡を追った;足跡は右側の雪庇の新しい切れ目に至っていた。ヘルマンは・・・・・落っこちて死んでしまった?」
 「どうにかして私は一旦ギャップまで戻り、そこから尾根筋の頂点まで登り直した。そこからは若し天気さえ良ければ北壁の全容が見えるはずだった。そして天気は回復していた。長くはなかったが、上方に恐ろしい事実が望見できた。10ないしは15メートル私のあとにいたヘルマンは、私のトレイスが少し曲がったところでトレイスからはずれて、真直ぐに進んだのだ――そしてまさしく雪庇の上へ。その後ヘルマンは、300〜500メートル落下して・・・・どこかそのあたりに巨大な雪崩のデブリに下敷きになっているのだ。」

クルト・ディーンベルガーは稜線を下降し、苦闘の後5500メートル地点でビバーク、翌日ブロード・ピークのBCに帰還した。マルクス・シュムックとフリッツ・ヴィンターシュテラーはディーンベルガーとともに直ちに捜索を開始したがむなしかった。1957630日、彼ら二人は、雪盲となってチョゴリザの麓に留まっていたディーンベルガーに次のように報告した。―5700メートル地点から―優秀なツァイスの双眼鏡でさえ何も発見できず、新たな雪崩がいくつも発生し雪の側壁の下方の深い谷間に落ちこんだのを確認しただけだった。「側壁の下の谷間に入っていくのは、雪崩の危険を考えると不可能なことだった」(ディーンベルガー)
 遠征隊はバルトロを去り、スカルドへ、そして故郷に帰った。ブールなしで。

1958年、チョゴリザ初登頂が日本隊のクライマー藤平正夫と平井一正(遠征隊長桑原武夫)によってなされた。彼らはブールとディーンベルガーのテントを発見し、ブールの最後の日記を回収し、それを丁度ガッシャーブルムIV峰を登頂し居合わせたワルテル・ボナッティーとカルロ・マウリに託した。日記はクルト・ディーンベルガーを介してジェネル・ブール夫人に届けられた。最後の部分は次の様だった:
 「624日:・・・3:30テント発etc 小雪;天気特記事項なし;状況良し;7:30 5500mデポ。デポから登攀用具―リュックは約25Kg―アイゼンより上膝までの雪;カベリ・サドルまでトレイルをつける;午後5時頃6360m地点にキャンプ設営;色んな物に旗印をつける。」

ディーンベルガーは「チョゴリザでのブールの一週間を想像する人達に次の事実ははっきりいえる。チョゴリザの日々はブールに再び真の満足を与えた。ブロード・ピーク遠征の最終局面とは異なり、彼は再び熟達したヘルマン・ブールを感じ取っていた。」とコメントしている。
 その通り、熟達したブールだったのだ;弱冠、32歳、トップクラスの登山家。若し彼が生還していたら、今日に続くスポーツ登山に影響し続けたに違いない。

「ブロード・ピークの登頂でヘルマン・ブールは、若いクライマーに彼らの辿るべき道筋を示した。ヘルマン・ブールの例証は残り続けるだろう。」(クルト・ディーンベルガー)


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